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戦前の大阪市内の路線バス(その2)

前回
戦前の大阪市内の路線バス - なみはやノーツ
、昭和13年現在の大阪市内のバス路線図をご紹介しました。
解説として、大阪市北部だけやったので、今日は南部をご紹介しましょうかね。

元記事は大阪市交文書館にあった画像より。ページはこちら。
http://www.city.osaka.lg.jp/somu/page/0000062075.html
大阪市市民の方へ デジタルギャラリー2008

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南部はわかりやすそうなので、もう色分けはしないでおきます(ぉぃ


布施を起点にしている大軌バス。これは大阪市内ではありませんが、その後色々と難癖をつけてくる(こらこらこらこら)近鉄バスですね。枚岡まで行っているのでしょうか。

平野を起点として4路線あります。自治都市平野郷として、中世から発展している平野です。そのために各社はバス路線を引っ張ってきたのでしょうか?
その答えはNO。おそらく、これも前回に紹介した長柄橋や滝井と同じように、路面電車との接続を考慮した設定をしたためだと思います。まだバスは小さな車両しかありませんが、それから比べると路面電車は大量輸送が出来ますので、とにかく都心に出られる電停を目指したんでしょうね。

25号線を走る路線ですが、会社名が読み取れません。その後は近鉄バスになるはずなんですが、、、、ぐぬぬ。これも河内国分まで行っているんでしょうか。
南の南河内郡(現:松原市)に向かう2路線は、明治橋と高野大橋を通る路線。これも近鉄バスが20年ほど前まで運行されていた路線ですね。これは大軌バスではなく大鉄バスと読めます。近鉄南大阪線がまだ「大阪鉄道」の頃であったためではないかと推測されます。大鉄の関係するバス会社だったのかなということ。

さて、これが私が知らなかった、市内を東西に走り、住吉大社まで行っている路線。会社名が読み取れませんが、○川バスと、何とか読めます。駒川でしょうか?この当時は個人経営のバス会社も多いので、個人名のバス会社かもしれません。こういう会社は財務体質が弱くてすぐに廃業したり、買収されたりすることも多いので、本当にわからないことだらけです。平野区あたりは区画整理がされてしまい、どの道を通ったのかもわかりませんが、近鉄南大阪線を越えると長居公園通りを西に向かい、阪和線を越えると北の道を通っていたようです。この道は今でも残っているので辿ることが出来ますね。上住吉のバス停を過ぎて住吉大社にぶち当たると、北に迂回して住吉大社の正面付近が終点だったのでしょう。

最後、その住吉大社の正面から、南海バスが短い区間ですが西に延びています。これは南海電鉄の社史に記述を発見しています。どうやら住之江公園へ向かう行楽輸送だそうです。当時阪堺電軌(現在の阪堺電軌とは違う。後の市電三宝線ね)とはライバル会社で、堺市内で行楽・海水浴客の激しい奪い合いをしており、これもその一環&南海電車の乗客の利便性を考えて運行していたんだと推測されます。
しかし、戦時中に南海はこの路線を大阪市に売却します。営業エリアが堺以南である南海バスにとって、ぽつんと離れたところにある路線は回送するのも面倒ですし、戦局が長引く中、ガソリン統制で行楽輸送などと行ってられなくなったんでしょう。営業キロも1㎞ないですし。

以上。つたないですが解説でした。
しかし、わからないことがまだたーくさんあります。平野-住吉間のバス路線は一体何だったんだろう?とか、京阪バスの都島-赤川間はいつ消えたんだろうとか、これ以外にも路線があった可能性も否定出来ません。もっと詳しく知りたいのですが、やはり、いろんな図書館とか公文書をひもとかないとわかんないんだろうなあ。


あ、そうそう、この前の締め切りの別のブログですが、書き上げていますよ。
この市バスネタが興味ある人は、きっと楽しめるエントリだと思うので、ご紹介しておきましょう
つひまぶ: 古い写真は一級価値の資料なのだ